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何者でもないという自由について、信長と秀吉から考えた

春爛漫

またまたテレビネタにてご容赦ください(笑)

NHK「偉人たちの健康診断」で豊臣秀吉が取り上げられていました。これは、歴史上の偉人を出汁にして、NHKらしく歴史考証や医療・健康情報を織り込んで、健康法を紹介するというバラエティ番組です。

で、1月31日の秀吉の回、「天下人はなぜキレるのか?」。若いころには対人能力に優れ明るく忍耐強かった秀吉が、後に短気で残虐になったのは、食生活や運動習慣の変化に原因があったのではないかということでした。心に残ったのは、「貧しかった頃は、麦飯に水をかけて食べた。その麦飯ほどうまいものはなかった」と、晩年、秀吉が回想していたというエピソードでした。

そして、信長。鈴木雅之監督の「本能寺ホテル」が11日夜放送されました。信長が本能寺の変が起こると知りながら、寺に留まることを決め、昔を回想するシーン。若く意気軒昂な信長が、身分に関わらず仲間と交わり、仲間とともに勝どきをあげた回想シーンに、楽しかっただろうと私も共感することができました。

秀吉の述懐は、伝聞が文書として残されているようですが、信長については、フィクションです。それを踏まえつつ、時代の頂点を極めながら、まだ何も持っていなかった若いころを懐かしむ二人の想いに、凡人である私もしみじみと共感しました。

何者でもないということは、夢を見る自由、選択の自由が多く、目標に向かっていくエネルギーや希望に満ちているということなのだなと思いました。社会的に成功して力を得れば、経済力や裁量という意味で自由は拡大しますが、同時に責任も重くなります。責任の大きさが働きがいや生きがいであることは否定できません。

ただ、もし、役割や立場にとらわれず、何も持たなかった頃の自由を、ふと懐かしむ気持ちが湧いてきたら、定年後、引退後に、肩書きのない自分に戻って自分らしいライフスタイルを実現することは可能でしょう。人生100年時代の今は、そのための時間が充分に残されています。若いころ、自分が何に夢中になっていたのかを思い出せば、組織を離れてから、どのような働き方や生き方を選べばよいか、迷いがなくなるに違いありません。

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